チェスのイメージ
チェスは盤面競技の中でも数多くのファンを持つ

1997年、人類最強のチェスプレーヤーと目されていたGarry Kasparov(ガルリ・カスパロフ)氏は、IBMのスーパーコンピューター「Deep Blue(ディープ・ブルー)」に敗北した。ひとつの時代の終わりと、ひとつの時代の始まりを告げるできごとだった。

チェス


ディープ・ブルー対カスパロフ
カスパロフ対ディープ・ブルー(出典:Computer History Museum)
(c)Najlah Feanny/CORBIS SABA

盤面競技は、地球上に広がった人類のさまざまな文明にあらわれ、しばしば特別な意味を持ってきた。たぐいまれな知性の持ち主が、ただ純粋に勝負のためのみ能力を極限まで発揮し、複雑きわまりない布陣を敷いてぶつかりあうさまは、肉体を駆使したスポーツあるいは決闘、さらには戦争にもなぞらえられ、賞賛を浴びた。

チェスもまたしかり。カスパロフ氏は1963年に今日のアゼルバイジャンに生まれ、旧ソヴィエト連邦でめきめきと頭角をあらわして若干22歳で世界王者となり、15年ものあいだその座を保った。空前絶後の記録として、当時でさえ生ける伝説というべき存在だった。まだ世界が東と西に分かれ対立していた冷戦時代ですら、東のカスパロフの名は、西の欧米各国にもとどろきわたっていた。

欧米ではチェスプレーヤーは特別な敬意を受け、しばしば文学、絵画、舞台、映画などの題材となってきた。それゆえ隆盛しつつあったコンピューター業界でも、多くのエンジニアはチェスを愛し、コンピューターによって最強のプレーヤーを生み出そうと努力し続けた。

その結実の1つがディープ・ブルー。1985年にカーネギーメロン大学の大学院生だった台湾生まれの許峰雄氏が発表した論文から生まれた。彼は同窓のMurray Campbell(マレー・キャンベル氏)とともにIBMに入社。チェスを指すためのスーパーコンピューターを作る計画に取り組み、完成させた。

ディープ・ブルーは1996年にカスパロフ氏と戦い、いちどは敗れている。しかし1997年に再び競った際は大幅に性能を向上し、不具合が有利に働くなどの幸運もあってうち勝った。IBMにとっても、コンピューター業界にとっても、そしてチェスの世界にとっても記念すべきできごとだった。

ディープ・ブルーは頭脳にあたるプロセッサーを32個搭載。今日ではスマートフォンや携帯ゲーム機なども頭脳として搭載している「マルチコア」CPUの先駆けとなった。

ディープ・ブルーのプロセッサー
ディープブルーのプロセッサー技術は現代につながる(出典:IBM 100)

また複数の計算を並行して行う手法は生命科学、流体力学、量子化学、天文学・宇宙研究、材料科学、気候学に多大な発展をもたらした。

囲碁


囲碁の人間対AIが対決
柯潔対アルファ碁(出典:The Future of Go Summit)

それから20年。Google傘下のDeep Mindが開発した「AlphaGo(アルファ碁)」が人類最強の棋士と目されている柯潔(コ・ジェ)氏を打ち負かした。

柯潔氏は、カスパロフ氏がディープ・ブルーに敗れたのと同じ年、1997年に中国で生まれ、10歳で段位を得た天才児。2015年に10代で国際囲碁連盟の主催する世界戦「百霊愛透杯世界囲碁オープン戦」を制し、破竹の勢いでさまざまな大会で勝ちをさらった。有志による囲碁の世界ランキング「Go Ratings」の頂点に位置し、囲碁の盛んな東アジアだけでなく、欧米にも活躍は聞こえていた。

もともと欧米ではチェスほどの知名度がない囲碁だが、複雑さにおいてはほかの盤面競技をしのぐと評判で、コンピューターが攻略するのが最も難しい分野の1つとして、エンジニアのあいだで関心は高まっていた。

そうして2014年にアルファ碁が生まれた。親となったのは英国出身のDemis Hassabis(デミス・ハサビス)氏。子供のころからチェスに優れ、若くしてコンピューターゲーム開発を手掛けたあと、大学で計算機科学、神経科学を研究し、やがて人工知能(AI)向け技術のひとつ深層学習(ディープ・ラーニング)にたどりつき、囲碁に応用した。

AlphaGoのイメージ
深層学習から生まれたアルファ碁は恐るべき強さを発揮(出典:DeepMind)

2017年5月にアルファ碁が柯潔を打ち負かした際は、先に韓国の著名棋士である李セドルにも勝利していたがゆえに、驚天動地というほどの衝撃はなかったが、やはりひとつの時代の終わりと、ひとつの時代の始まりを象徴するできごとではあった。

決して柯潔氏が油断していた訳ではない。一部のニュースサイトでは話を盛り上げるため、氏がかつてアルファ碁について「李セドルには勝てても自分には勝てない」と豪語した点を強調するが、実際にはリップサービスの意味合いが強く、アルファ碁対李セドル戦の途中から「自分でもあの対局は勝率5%だった」などと厳しい認識を示し、すさまじい実力をしっかり把握していた。

その後、柯潔氏はアルファ碁と運命の対決を迎えるまでに、中国のIT大手Tencent(騰訊)が開発した「Fine Art(絶芸)」と練習を重ねた。絶芸は深層学習を応用して囲碁を打つという点でアルファ碁と共通しており、インターネット上の対局では数多くの棋士に勝利している。

Tencent AI Labの画像
柯潔氏はTencentが作った「絶芸」などと練習を重ねたが…(出典:Tencent AI Lab)

柯潔氏としては、中国発のコンピューター囲碁を強く育てるのに協力する意図だけでなく、アルファ碁を相手に少しでも勝率を高めるため、人ならざる敵の特徴に精通しておきたい思惑もあったのではないだろうか。

だが、アルファ碁はそのあいだにさらに強くなったとされる。柯潔氏は結局3番勝負のうち2つをたてつづけに落とした。最初の対局は中国ルールで4分の1子、日本ルールで1目半という僅差だったというが、実際には「そうなるように」アルファ碁が調整したのではないか、といううわささえあるほどだ。とにかく溜息の出る強さだった。

ディープ・ブルーを生んだ技術が科学に発展をもたらしたように、おそらくアルファ碁を無敵ならしめる技術もまた、想像もつかない成果を我々にもたらすに違いない。悲しむべきか、喜ぶべきか、いずれにしてもコンピューターはさらに先へと進んでいく。