NHN Japan 田端信太郎の Web メディア論(第2回:コンテンツクオリティ)

第1回の続き

Web メディアが正攻法でマネタイズするのは困難であり、「CGM」が生き残る一つの道だと語る田端氏。「その場合、コンテンツのクオリティは担保されなくなるのでは?」という問いに対して、「いま受け手が何を求めているか」という視点から、今の時代の文脈にそってクオリティを定義する―。

■Web メディアのコンテンツクオリティは高いのか?

―先ほど、「CGM 的にコンテンツを生み出す仕組み」の有無が、Web メディアのビジネス的成功の一つのポイントになると仰いました。ただそこでいくと、コンテンツのクオリティという面で懐疑的に見る向きもあるように思います。

うーん、これも難しい問題ですよね。まずそもそもの話、「コンテンツとは何か」から定義しないといけない。例えば Google の検索結果はコンテンツなのか。ある意味、コンテンツと言えなくもないと思うんです。コンテンツを「人が何らかの動機をもって見にくるもの」くらい広く定義してしまえば、Google の検索結果はむしろ世界最強のコンテンツと言えます。

ただ「それはコンテンツじゃない」「検索結果の先にあるものがコンテンツであって、Google はただそれを紹介しているだけだ」と、そう見ることもできる。

僕も正直、そこは五分五分としか言えません。ただ抽象的な言い方をすれば、それがコンテンツと言えるかどうか議論するよりは、なぜ人はそれを見にくるのかという「動機」について議論することのほうが本質的なんじゃないかという気がしています。

メディアでなぜコンテンツが重要かというと、それがそのメディアを見てもらうための「動機」になるからじゃないですか。みんなが白紙の週刊誌を読んでくれるのであれば、広告だけ載っていてもいいわけだし。

逆に言うと、どんなに立派なことが書いてあったとしても、誰も読みたがらないような小難しい文章だとしたら、全く価値がないわけで。ビジネス的な観点でいくと、メディアにとってコンテンツとは“撒き餌”みたいなものだと、すごくドライに言い切ってしまうこともできるんです。

ホントに、何なんでしょうね…。例えば Facebook でいえば、“人間関係”こそがコンテンツだとも言えるし、“いいね”を押されるものがコンテンツだとも言えると思うし。

もちろんものすごく狭い解釈だと、記事や写真や動画といったものがコンテンツだということになるんですけど…。うーん、何がコンテンツで何がコンテンツじゃないのかってことすら、僕自身もよく分からないんです。

―少し話題を変えさせてください。よく Web メディアと紙メディアが比較論で語られることってありますよね。そして紙に比べて、Web のコンテンツはクオリティが低いと言われることも少なくない。プロと素人の差という話で括られることも多いと思います。

そうですね。

―ただ一方で、NHN さんの「NAVER まとめ」のように、Web の世界では紙メディアには成しえないコンテンツが出てきていて、その担い手の多くは素人だったりする。そして、田端さんはそうした「一般人の手による Web メディアのコンテンツ」について、プロが作る紙メディアのコンテンツと比べても、負けない価値を持つものになっていくとお考えなのではないかと。

それについては、基本的な方向性としては、編集なりコンテンツ作成なり、メディア運営は「民主化」されていくと思うんです。ただ、そのときの「価値」や「品質」を巡る議論については、僕もずっと考えている最中で、あんまりクリアな答えがない…せっかく取材いただいたのに申し訳ないですが…。

―いえいえ…。

いや、いろんな語り方ができるかもしれないですけど、例えば“正確さ”と“スピード”との関係について。報道であれば、今この瞬間に野田首相が辞任したっていうニュースがあったとして、それを“いかに早く流すか”がクオリティになりますよね。辞任っていう文字を「自認」と変換ミスしていたとしても、極論1秒でも早く出したほうがクオリティが高いとも言えなくもない。

ただ、見る人によってはその変換ミスを低クオリティと捉えるかもしれない。だからクオリティの定義って正直すごく難しくて。非常に抽象的な概念ですから。それよりはメディアとして自分たちの、やるべきこと、読み手から求められていること、自分たちだからできること。他の人ができないオリジナリティがありつつ、見たいと思ってもらえるものを作ることを考えるほうが重要かと思います。翻って、それが結果的に「クオリティが高い」ということになるのかもしれない。読者不在の観点から「メディアにとってクオリティとは?」という議論をしても、無意味に思えます。

…そうですね、結局、読み手の視点を抜きにして、クオリティは定義できない。なおかつ、読み手が何をもってそのコンテンツを評価するかというと、「他ではできないことをやっているか」「ただの自己満足ではなくて、ちゃんと“見せる”ものになっているか」、この2つに集約されます。言い換えれば、「オリジナリティ」と「ニーズの高さ」。それがクオリティが高いということなのかな。

■紙との比較論では語れない、Web メディアなりの“クオリティ”

―紙との比較で、例えば紙の雑誌と Web マガジンだと、その間にクオリティの差を感じますか?

ないことはないと思うんですけど、本当にその差が問題なのか、ということですよね。

例えばですよ、今回のこのインタビューに関して、田端の顔を綺麗な写真で載せることが、果たしてこの記事のクオリティを考えるうえで、どこまで問題になるのか。

紙との比較論では語れない、Web メディアなりの“クオリティ”

グラビアアイドルなら分かるんです。読み手は綺麗な写真が見たいわけだから。

それって本当に読み手が求めているものなのかと考えていくと、「ちゃんとしたメディアの取材は、ライターとカメラマンが個別で揃っている必要がある」という前提自体が意味のないことかもしれません。

そうは言っても、カッコ良さげに写っている写真があったほうが、読み手にとってもありがたいのかもしれないし…。これは分からないですよ。分からないですけど、少なくとも紙でやっていることを全てなぞることが、Web メディアのクオリティを高める方法論だとは思わない。

―紙とは全く別のアプローチがあるはずだと。

GIGAZINE が、テープ起こししたテキストを全文のせている記事あったじゃないですか。GIGAZINE はちょくちょく面白いボールを投げますよね。あれをどう捉えるべきか。なかなか悩ましいですよ。いや悩ましいというか「“アリ”なんじゃないか」と思いましたけどね。

もっと言えば、ダイジェスト版と全文版と2パターンあっても良かったかもしれない。ただあれに対して、「こんなものは編集されてないからプロの仕事じゃない」と言ってる方もいたわけですけど、僕はそんなふうには全く思いません。

紙ではあり得ないスタイルという意味では Web ならではのオリジナリティを発揮しているし、インタビュー対象者によっては、ヘンに編集がかかったものより逐語掲載のほうがありがたいかもしれない。何より、それを読みたがる人がいるという意味では、非常にクオリティの高いコンテンツとも言えるかもしれない。少なくとも、言えなくはない。

個人的な感覚ですけど、紙の場合は「批判されない」ことをもってクオリティが高いとしている部分があるのかもしれませんね。紙って直しがきかないから、いろんなところからのツッコミに耐えられるように、どうしてもいろんなところに予防線を張らなければいけない。

編集者の菅付雅信さんが、「プロの作る編集物は“ウェルメイド”かつ“ウェルコンシダード”であるべき」と仰っていたのですが、それは言い換えると「非の打ち所がない」ということですよね。

たしかに紙という、印刷の工程を必ず通さなければならないメディア特性を考えると、それは必要な考え方だと思います。

ただ、本当にそれが「読み手にとってクオリティの高いもの」なのか。紙って印刷された瞬間にスタティックなものになるわけですが、例えばニュースサイトだったら一分ごとに違う形になっている。その動的な、常に移ろう感覚は、紙だとあり得ないものですよね。

―「Web はいつでも変えられるから」と、ちょっと下にみる見方もあったりすると思うのですが、逆にいえばその変化性こそが Web メディアの強みだと。

津田大介さんのやってらっしゃった「実況中継(tsuda る)」も、面白い形態ですよね。ほんのわずかでも早く知りたいというニーズに応えている。むしろメディアとは、そもそも、人間の身体感覚器の延長、平たくいえば、目の延長・耳の延長という意味でいくと、より根源的に「メディア」であるとも言えます。それで現場で一生懸命やってて誤字脱字が入ったとしても、それで「あれはクオリティが低い」っていう話にはならない。

当然、ミスがないに越したことはないんですよ。ただミスがないことを目指したときのトレードオフで何を失っているのか、そのバランスをみて「結局のところ読者からみてどちらが必要とされていますか」という議論になるわけで。

単にメディアに携わる人間としての責任で「ミスをゼロにする」ことだけにこだわっているのは、ちょっと視野がせまいと思います。仮にこだわったって、ミスが起こる可能性はゼロにはならないわけですし。

紙の雑誌って必ず「校正」が入るじゃないですか。紙と並行したWEBメディアを立ち上げるとき、校正・校閲を紙と同じレベルで入れるかどうかってまず議論になるんですよ。僕はあんまり意味がないと考えてるんですけど、紙の編集部からすると同じレベルで校閲してくれないと気持ち悪い、と。

その感覚は分かるんです。でもそれって言い換えれば「俺たちはミスなく誰からもツッコミの入らないものを作っている」という信条に対してヘタレ的な弱さを投影した結果としての、過剰防衛的な反応だとも思うんです。

確かに、あまりにも漢字の変換ミスが目立っていたり、そもそも内容が分かりにくいのは別ですが、そこそこ十分だと言えるのであれば、校正・校閲の時間でもう一本取材に出向いたり、あるいはそのぶん早くリリースしたほうが、総合的にみて読者のメリットになるんじゃないかと思いますけどね。結局、クオリティってすべてユーザーが決めることですよ。

(つづく)

記事提供:CAREER HACK